より少なく、かつ、より良く

回『神の本質』の続きである。

 

人間は、自らを「モノ」扱いする存在を否定する。

 

昨年来、フランスで起きているデモなどは、その好例といえるだろう。

 

また、近年、国内で増加傾向にあるパワハラやイジメなどの訴えも、広い意味では、自らを「モノ」扱いした存在を否定する行為といえるかもしれない。

 

そうした行為を、“I am that i am.”と絡めて説明すれば、それは、「自らの存在に対して、動物やモノを対象とする関係代名詞“which”が用いられることへの怒り」であるといえる。

 

他者を「モノ」として認識し、その「モノ」を壊すことでしか、自らが「人間である」ことを実感できないとしたら、実に虚しい。

 

かつて、フランスに実存主義ブームを巻き起こした哲学者サルトル(1905ー1980)は、「人間であるとは、いかなることか」と問うた。

 

人間関係の軋轢が生まれている場所では、この「存在の問い」が欠けているような気がしてならない。

 

 

ころで、このサルトルの問いは、いわゆる「無神論」的実存主義の立場からのものである。

 

だが、サルトルの問いを“I am that i am.”と重ねてみると、意外にも「神の本質」についての新たな観点が得られる。

 

この問いを、「有神論」的なフィルターにかけてみる。

 

すると、「人間であるとは、いかなることか」は、次のように変換される。

 

「神の似姿=人間であるとは、いかなることか」

 

この問いが存在するためには、次の問いが先に存在しなければならない。

 

「神であるとは、いかなることか」

 

思うに、その答えこそが、旧約聖書の神が自らについて言明した“I am that i am.”ではないだろうか。

 

この句は、事物の名称を表す「名詞」を持たないため、“i”の他には「主語」となりえる語が存在しない。

 

また、事物の状態や人間の感覚を表す「形容詞」を持たないため、これを修飾する「副詞」も必要ない。

 

さらに、“should”や“must”などの助動詞を持たないため、これらの縛りを受けて“am”が変形させられることもない。

 

よって、“am”に対して、“not”という「否定語」を追加する必要が一切ない。

 

 

れはまさに「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」である。

 

この言葉は、釈迦が生まれたときに発したといわれている。

 

その意味は「宇宙間に“我”より尊い存在は無し」である。

 

 

“i am”は朽ちることがない。だが、それ以外の存在は、必ずいつかは朽ちる。

 

この理解は、人生のマネジメントに欠かせない視点だ。

 

朽ちるものは、「より少なく」持つことで、負荷を必要最小限にできる。

 

朽ちないものは、一つしか持てないので、「より良く」することだけに集中する。

 

なお、ここで「朽ちないもの」とは、「我」すなわち、「わたし」と「あなた」である。(了)