神の本質

回『神の命題』の続きである。

 

まずは、本稿を書き進めるにあたって、“I am who i am.”と“I am that i am.”の表記を統一しておく。

 

両者の違いは「関係代名詞」だが、概念の対象範囲が「人」に限定される“who”よりは、「万物」を対象にできる“that”の方が、一応「創造主的」ではある。

 

というわけで、以下本稿では、この句の表記を“I am that i am.”に統一する。

 

さて、前回も述べたが、この“I am that i am.”は、論理学でいう「命題」の要件を満たしている。

 

この命題の中心は、“I”すなわち「神」であり、その神についての陳述が“i am”である。

 

普通なら、“am”の後ろには、神の「本質」に相応しい名詞や形容詞、例えば、“the Eternal”や、“universal”などの言葉が続きそうなものだ。

 

だが、何もない。あえて言うなら「空欄」である。

 

 

こで「本質」とは、あるものが「何であるか」を決めるために、欠くことのできない要素・特質のことである。いわば「存在理由」である。

 

この「本質」という言葉には、「いつまでも変わらないもの」というイメージがある。

 

例えば、「ハサミ」の本質は「切るモノ」である。その本質は、それが存在する限り「不変」である。

 

だが、人間の「本質」の場合は、ハサミのような「モノ」とは全く事情が異なる。

 

例えば、人間は、その生涯において、子、夫・妻、親といった様々な「立場」を経験する。社会的な「肩書」などもそこに含めれば、その数はもっと増える。

 

そして、それらの「立場」に身を置くなかで、「ワタシ」という本質も変わってゆく。

 

つまり、人間の本質は、新しい経験によって「変化」するのである。

 

だから、いわゆる「現状維持」にも二通りあり、新しい経験を受け入れて中身が変化し続ける場合と、そうでない場合がある。

 

後者の場合は、本質を「モノ」化させかねない。「不変」という選択は、一見、リスクが少ないように思えるが、長い目で見ると実は危険なのである。

 

同じ読みでも、「不変」と「普遍」は違う。

 

 

書によれば、人間は神の「似姿」として創造されたという。

 

ということは、「神の本質」もまた、新しい経験によって変化してゆくものなのかもしれない。それは、まさに「千変万化」であろう。

 

旧約聖書の神は「偶像崇拝」を厳しく戒めたというが、その理由も分かるような気がする。

 

なぜなら、神を偶像と認識することは、「神の本質」をモノに固定することに他ならず、ひいては、神の実存を否定することになりかねないからである。

 

誰だって、自分が「モノ」のように扱われれば、侮辱を感じて腹を立てる。それはきっと神も人間も同じだと思う。もちろん、地球も。

 

実際、旧約聖書の神は、偶像崇拝に傾いた人間に対して激しく怒っている。

 

だが、あれは神の性格の問題というより、「因果応報」を介した教育的指導と捉えるべきだろう。

 

「あなた」も怒ってよい時は、怒った方がいい。(了)