奇妙な夢③:言葉の壁

『奇妙な夢②:真の主体』の続き。

 

まず、画鋲の配置図を再掲する。なお、括弧書きは、そのカバラ的解釈である。

 

①(判断) ②(慈悲)
   ③(自己)
   ④(自我)
   ⑤(体)

 

 

て、例の夢の中で私は、①と②だけが画鋲で留められていた長い「リボン」を見つけた。

 

そして、その残りの部分を「③→④→⑤」の順に留めていこうとした。

 

ところが、長さが不足して、最後の⑤だけが留められなかった。

 

 

にも述べたとおり、人間の「自我意識」の範囲は「③④⑤」に及んでいる。

 

自我意識は3階層になっている。

 

その最上位の③(自己)を基準にすると、④は「人間的自己」、⑤は「動物的自己」という位置づけになる。

 

最下位の「動物的自己」は、「人間的自己」ほどには自我意識が発達していない。

 

「わたし」という主観が十分に確立していないため、客体を表現するための「言葉」も持ち合わせていない。

 

だが、犬や猫などのペットは、人間と曲がりなりにもコミュニケーションできる。

 

だから、きっと、「人間的自己」と「動物的自己」の意思疎通も可能であるに違いない。

 

 

ミュニケーションは、当事者間に一定の「信頼関係」がなければ難しい。

 

その「信頼関係」は、某かの「感覚」を共有することによって形成される。

 

だから、「感覚」が生じないところに、コミュニケーションは生まれない

 

ペットの場合は、野性動物とは異なり、人間と生活空間を共にする中で「感覚の共有」が進んでいる。

 

だからこそ、意識階層が異なっていても、コミュニケーションが可能なのだろう。

 

一人の人間における、自我(④)と体(⑤)の感覚共有の強度は、人間とペットの比ではない。

 

だが、人間と人間の場合となると、少々危うくなる。

 

まして、神と人間の場合は。

 

 

(⑤)は、「感覚」を収集するセンサーである。

 

そして、共有化された身体感覚に基づき、体系化された意志疎通のための手段が、「言葉」である。

 

自我(④)の座で営まれる人間特有の高度な精神活動は、すべて「言葉」によるものである。

 

その意味で、人間的自己にとって言葉は、まさに「命」である。

 

人間は、身体感覚に由来しない「抽象概念」でさえも言葉にすることができる。

 

いわゆる「神」や「悟り」などが、それに当たる。

 

だが、こうした「身体感覚から離れた言葉」は、いろいろと問題も引き起こしやすい。

 

例えば、文字主体のコミュニケーション環境では「感覚のズレ」が尖鋭化しやすい。

 

SNS等での「炎上」は、その好例である。絵文字やスタンプには、その「ズレ」を補う側面もある。

 

一方、振り込め詐欺などは、巧みな話術で「感覚の共有」を悪用する犯罪とみることもできる。

 

また、人間が、AI(人工知能)が発する言葉に何となく違和感を覚えるのは、そこに「言葉と感覚のつながり」が感じられないからであろう。

 

もっとも、映画『2001年宇宙の旅』の「HAL9000」の暴走シーンを思うと、能力差が著しいだけに、むしろ「つながっていない」方が無難かもしれない。

 

 

の「言葉と感覚のつながり」というテーマは、スピリチュアル面においても一考に値する。

 

例えば、私のように、自己(③)=真我の意識段階に到達していない人間は、当然、「悟りの感覚」を知らない。

 

様々な書籍で「聖なる言葉」を学び、いくらか達観したように思えても、その「わたし」は、自我(④)である。

 

より正確には、自己(③)を真似ている自我(④)である。

 

「真」我を尺度とし、これに「似」せようとしている「わたし」である。

 

もちろん、「真似る」ことは「学ぶ」ことに通じるので、やって損はない。

 

だが、学んだことが「身体感覚を伴わない抽象概念」である限り、動物的自己である体(⑤)には、おそらく届かない。

 

それは、喩えるなら、ペットに「悟り」を説くようなものである。

 

その結果が、人間でいう「馬の耳に念仏」状態になることは想像に難くない。

 

 

葉の「素(もと)」である身体感覚は、元々、体(⑤)の座で生じた。

 

だが、「感覚とのつながり」を失った言葉は、自らのルーツに帰還することができない。

 

要するに、自我(④)と体(⑤)の間には「言葉の壁」が存在しているのである。

 

思うに、この「壁」は、意識の下り方向(③→④→⑤)にだけ存在している。

 

喩えるなら、それは、高速道路の一部区間における「片側交通規制」のようなものである。

 

なるほど、例の夢において「リボン」が⑤に届かなかった状況は、たしかに「交通渋滞」に遭遇したときに似ている。

 

「感覚」でお伝えすると、そんな感じである。(了)