白い闇を抜けて

週あたりから、日常に対する「退屈感」のようなものが表層意識に度々上ってくるようになった。

 

一方で、それを解消する有効な手立てが見つからず、少しイライラしていた。

 

こうした「小さなイライラ」は、たいていは軽く運動して熟睡すれば、どこかへ消えてしまう。

 

だが、どうも最近、その頻度がやや増してきているような気がした。

 

そこで、退屈だったこともあり、この「小さなイライラ」の感情と正面から向き合ってみることにした。

 


際にやってみると、これが意外と難しかった。

 

小さなイライラが「退屈な日常」に向けられていることは確かだった。

 

しかし、具体的な対象をあげてみても、どれも感覚的にしっくりこず、どうしても「モヤモヤ」が残った。

 

ここで、前回記事に書いたことが思い出された。

 

具体的な対象をいくら列挙してみたところで、「感覚」が抜け落ちた言葉を使っていては、今一つ体に響かないのかもしれない。

 

どうやら、それが「モヤモヤ」の原因のように思われた。

 

そこで一計を案じ、抽象概念的な言葉から一旦離れて、「感覚」的に一番しっくりくる言葉を使うことにした。

 

しばらく考えて、一番しっくりきたのが、次の言葉だった。

 

「思い通りにならない」

 

 

速、私は、この「思い通りにならない」感覚を頼りに、記憶を辿ってみることにした。

 

同じ感覚をもつ記憶の中に、この「小さなイライラ」を解消する手掛かりがあるかもしれないと考えたからである。

 

そこで、しばらく「記憶の海」に潜ってみた。

 

すると、この「思い通りにならない」感覚は、「特別なもの」でも何でもなく、実にありふれた感覚だということが分かった。

 

交通渋滞、満員電車、レジの順番待ち等々、「思い通りにならない」感覚は、日常生活の至るところに溢れかえっていた。

 

ある意味、「わたし」の世界は、この「思い通りにならない」感覚で出来た「霧」にすっぽりと覆われていた。

 

どうやら、私の「小さなイライラ」の正体は、この「白いモヤ」のようだ

 

 

いうわけで、残念ながら、「かたち」のある原因は特定できなかった。

 

だが、関連する記憶を数珠繋ぎ式に辿っていく中で、思いがけず、スピリチュアル的な気づきが得られた。

 

それは、この「思い通りにならない」感覚が、最終的には「怒り」という感情に行き着くという事実だった。

 

私の意識の中を覗いてみたところ、「思い通りにならない」感覚が凝集したような場所があることが分かった。

 

そして、そこで「電気」のようなものが生成され、それが「思い通りにならない」対象への怒りとして昇華しているように思われた。

 

私の場合、その対象は、自分よりも外部に向けられることの方が多かった。

 

あらゆる怒りの感情が、この「思い通りにならない」感覚から始まっていた。

 

喩えるなら、トンネルの入り口が「思い通りにならない」感覚で、その出口が「怒り」である。

 

ある意味、「小さなイライラ」は「注意報」の役割を担っているのかもしれない。

 

 

りは、よく「火」に喩えられる。

 

一方、「思い通りにならない」感覚は、「水」の流れが滞ったような感じだろうか。

 

どうも、自我である「わたし」は、この「水」の流れを原状回復したい、と切に願っているようだ。

 

この願いが、塵のように積もって、「(外部状況を)思い通りにしたい」という欲求が生まれるのかもしれない。

 

そして、この欲求を満たすための「(外部状況を)思い通りにする」という動作の果てに、環境破壊や戦争があるような気がした。

 

だが、歴史からも分かるように、世界は決して人間の「思い通りにならない」。

 

なったように見えても、それは一時的に過ぎない。

 

まるで、「神の手」によって、世界の基本設定が「(自我の)思い通りにならない」ように予めセットされているかのようだ。

 

 

んなことを考えているうち、一つの逆説が頭に浮かんだ。

 

神の視座すなわち宇宙的世界観の下では、むしろ「思い通りにならない世界」を受け入れた方が「生産的」といえるのでは・・・?。

 

そう思うと、「思い通りにならない世界を、思い通りにする」ことを願っている自分が、実にアホらしく感じられてきた

 

さらに、とりわけ「平成」の自分が、まさにそういう状態だったことに気づき、自分で自分が可笑しくなった。

 

そして、「令和」からは、そういう生き方はもうやめようと思った。

 

その瞬間だった。

 

体の中で「シュワー」という炭酸の泡のような音を感じた。

 

何やらエネルギーの固まりのようなものが溶け出して、両肩あたりから気化して抜けていった。

 

その後、1分間ほど体全体が脱力したような状態になった。

 

こんな経験は初めてだった。

 

 

だの「退屈しのぎ」として始めた自己観察ではあったが、おかげで、新しい人生の「尺度」を手に入れることができた。

 

その日はなぜか、飯がめちゃくちゃ旨かった。

 

「感覚のフィードバック」は、一番分かりやすい「尺度」だと思った。(了)