誰が語ったかではなく

和に入ってから、怠けて更新していなかったが、そろそろ再開する。
 
さて、最近、旧約聖書に収められている「コヘレトの言葉」を読むように促されている感覚があったので、改めて再読した。
 
以下は、理由はよく分からないが、今回気になった箇所を抜粋したものである。

※和訳は新共同訳。かっこ内は章節番号(以下同じ)。

 

太陽の下、人は労苦するが

すべての労苦も何になろう。

(1・3)
 
一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。

(1・4)
 
太陽の下、新しいものは何ひとつない。

(1・9)
 
今あることは既にあったこと
これからあることも既にあったこと。
追いやられたものを、神は尋ね求められる。

(3・15)
 
正義を行う人も悪人も神は裁かれる。
すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。

(3・17)
 
神に願をかけたら
誓いを果たすのを遅らせてはならない。
愚か者は神に喜ばれない。
願をかけたら、誓いを果たせ。

(5・3)
 
願をかけておきながら誓いを果たさないなら
願をかけないほうがよい。

(5・4)
 
口が身を滅ぼすことにならないように。
使者に「あれは間違いでした」などと言うな。

(5・5)
 
善人がその善のゆえに滅びることもあり
悪人がその悪のゆえに長らえることもある。

(7・15)
 
善人すぎるな、賢すぎるな
どうして滅びてよかろう。

(7・16)
 
悪事をすごすな、愚かすぎるな
どうして時も来ないのに死んでよかろう。

(7・17)
 
善のみ行って罪を犯さないような人間は 
この地上にはいない。

(7・20)
 
人の言うことをいちいち気にするな。

(7・21)
 
あなた自身も何度となく他人を呪ったことを 
あなたの心はよく知っているはずだ。

(7・22)
 
神は人間をまっすぐに造られたが
人間は複雑な考え方をしたがる

(7・29)
 
神は、善をも悪をも
一切の業(わざ)を、隠れたこともすべて
裁きの座に引き出されるであろう。

(12・14)
 
 
て、同書の冒頭には、次のような言葉が記されている。
 
エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。

(1・1)
 
「コヘレト=エルサレムの王、ダビデの子」ならば、賢者の中の賢者として名高い「ソロモン王」ということになる。
 
だが、諸研究の結果、同書が成立したのは、ソロモン王時代(前971-931年)のずっと後代であることが明らかになっている。

 

少なくとも、バビロン捕囚(前586-538年)の帰還時代後、諸説あるが前5-2世紀の間とみられている。
 
実際のところは、「コヘレト」なる人物は、ソロモンを語った「なりすまし」であった可能性が濃厚なのである。

 

それでも同書は、旧約正典の一書として、堂々とラインナップされている。

 

普通なら、偽書扱いされても、不思議ではない。

 

 

なみに、「コヘレト」という名は、ヘブル語の動詞「コーへレス(集まる、集める)」に由来するという。

 

この名には、集会での語り手という意味合いもあるので、「伝道者」と訳出されることもある。

 

おそらく同書は、当時の「無名の伝道者」たちの講話を元に編集されたものであろう。

 

だが、言葉の価値は、「誰が語っているか」ではなく、「何が語られているか」で決まるのである。

 

同書は、いわば、聖書における「無印良品」といえよう。了)