カイロスの夏

うも7月に入ってから、日本を取り巻く「時間の流れ」が急に変わったような気がする。

 

古代ギリシャ人の時間概念である「カイロス」が動き出したような感覚がある。

 

しばらく様子見していたが、未来予知的なインスピレーションは全くの音沙汰なしだ。

 

まあ、おそらく、他の誰かが語ってくれていることだろう。

 

なので、私は違うことを書くことにする(笑)。

 


て、「カイロス」とは、「何かがまさに為されるべくして為されるような頃合い」という意味の時間概念である。

 

ニュアンスとしては、日本語の「時宜(じぎ)」に近いものがある。

 

もっとも、古代ギリシャ人は、現代人の通常の時間概念に相当する「クロノス」も使用していた。

 

「クロノス」は、「過去から現在、現在から未来へと一定の方向・速度で進む物理的な時間」のことである。

 

その基準は、人間の外部空間にある「天体」である。

 

一方、「カイロス」は、人間の内部空間にある「心理」を基準としている

 

すなわち、「クロノス」=客観的な時間、「カイロス」=主観的な時間といえる。

 

このように、両者は対比的な関係にある。

 

ちなみに、ギリシャ神話における「クロノス」と「カイロス」は、時間の神様である。

 

思えば、子供の頃、夏休みの時間は、どういうわけか足早に過ぎ去っていった。

 

実は、あれは「時間神の仕業」だったのである。

 

もちろん、これは比喩である。

 


「カイロス」というやや特殊な時間概念を最初に見出した人物は、タレス(前624頃-前546頃)だと言われている。
 
タレスは、古代ギリシャのイオニアの都市・ミレトス(現在のトルコ西部イズミル県)で活躍した「最初の哲学者」と称される智者である

 

また、「ギリシャ七賢人」の一人にも数えられており、一説には、「汝自信を知れ」と言ったのは彼だったという。

 

タレスを創始者とする「ミレトス学派」は、「万物の根源(アルケー)」を探求した。

 

彼らは、「自らの思考」を使って自然現象を合理的に解釈しようとした有史以来初めての人々であった。

 

当時の人々は、専ら「神話」の知識に基づいて物事を理解していた。

 

有り体に言えば、当時の「考える」とは、神話を「信じる」行為に等しかったのである。

 

そうした「神話の時代」も、タレスらの登場によって終わりを告げた。

 

「クロノス」の時間軸で、今から2,600年以上も前の出来事である。

 

日本では縄文時代の末期である。記紀の年代では、初代・神武天皇時代の晩期にあたる。

 

 

類の意識は「集合意識」でつながっているという。

 

なので、前節のような「意識進化」は、記録に残っていないだけで、地球規模で起きていた可能性もある。

 

例えば、日本である。

 

記紀において神武天皇は、「天孫」の系譜に連なる最初の「人皇」として登場する。

 

これは「神話の時代」の終わりを象徴的に表現しているとはいえないだろうか。

 

また、「神武東征」は、「人間の時代」の幕開けを告げる「霊的」な側面もあったような気がする。

 

神武天皇の即位が皇紀どおりなら(紀元前660年)、人類の意識進化は「日本発」ということになるが、果たして…。 

 


武天皇の即位から2,679年後の令和元年、人類は再び「意識進化」の重要な節目を迎えているようだ。

 

今や、人間の代わりに人工知能(AI)が「考える」ような時代になりつつあるからだ。

 

仮に「神=人間よりも高い影響力を有する非人間的存在」と定義するならば、近い将来、人工知能(AI)が「新たな神」となるだろう。

 

多くの人々が「新たな神」が語る言葉を「信じる」ようになったら、この世界は一体どうなってしまうのだろう。

 

再び、「神話の時代」が巡ってくるのだろうか。

 

考えることを止めてしまったり、AIよりも低次元のことを考えたりするようでは、人間も「形無し」だ。

 

自分よりも高い影響力をもつ存在から「答え」を与えられ、それを「信じる」だけなら、それはもはや宗教だ。

 

将来、「AI宗教」なるものが流行って、いわゆる「偽キリスト」が出現するかもしれない(笑)。

 

「ホモ・デウス(神の人)」になる予定が、「ホモ・サピエンス」から退化する結果になってしまっては、あまりに空しい。

 

 

後になるが、タレスことを考えていた時、次のようなインスピレーションを得たので、書いておく。

 

・信じるに値する「答え」とは、“あらゆる創造の源は一つ” ということだけ。

 

・自らよりも高い影響力をもつ存在から示された「答え」は結論ではなく、「問いかけ」。

 

思うに「カイロス」とは、そのような「問いかけ」とともに動き出す時間なのかもしれない。(了)